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天狗仕込み~ボンタンアメ 大正14年

事業はつねに順調であるとは限らなかった。第一回の危機が見舞ったのは大正14年。水あめが売れなかった。おまけに船で県外への輸送中にブリキ缶に穴があき、水あめが流出して損害を受けたので船会社に抗議したところ、あべこべに甲板の掃除代を請求される悲喜劇もあって、状況としては会社がつぶれない方が不思議なくらいだった。しかし壮次郎(初代社長)は、この最大のピンチをボンタンアメの創生によって鮮やかに切り抜けた。水あめでつくった朝鮮アメを、工場の連中がハサミで切り遊んでいるのを見たのがヒントである。それに色と香料をつけ、ひと口に食べれる形の粒にしてキャラメルと同じようにタテ詰めにした。箱の図案は大阪の専門家に頼んだ。田舎っぽいという評判もあったが、かえって南国らしい色彩が好かれた。あとは天狗仕込みの宣伝である。まず、薩摩隼人のムードよろしく陣羽織にボンタンアメの旗差物のいで立ちで、チンドン屋を編成して全国にくり出した。沖縄に渡ったとき、うっかりと赤線区域にまぎれ込んで女たちに囲まれ、かんじんの旗差物も打ちすてて逃げ帰ったというひと幕もあった。昭和3年には、払下げの軍用機を買って空からボンタンアメをまこうと計画。1機5千円ということで飛行士の準備も出来ていた。宣伝課長と総務課長が飛行機受領のため上京するのに、鶴鳴館で盛んな壮行会をやり、新聞にも写真入で書き立てられて大変な前評判だった。しかし、これが実現しなかった。上京した2人に追っかけて5千円を送金するはずが折からの不景気で都合がつかず「スグカエレ」の電報を打って呼び戻さねばならなかった。このときのことを「壮次郎得意の宣伝のテクニック」という者もいたが「最初は本当にやる気だった。しかしあれだけ世間が騒いでくれたんだから飛んだも同じだ」と壮次郎は豪放に笑い飛ばした。
(鹿児島新報記事より抜粋)

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戦中~戦後復興時の思い出 昭和20年

市内は殆んど焼けてしまった。工場も焼けたので閉鎖に踏み切る。焼跡に行き、整備その他のため、皆に集まるようにと日時を定め、炭で壁に書いておいた。20日頃と思う、多くの人が集まった。その日、焼付いた金庫から帳簿や通帳などを取り出した。中は無事だった。燃焼を防ごうとサイダー瓶に水を入れておいたのが大半なくなり蒸発していた。集まった行員たちには改めて日時を定め、給料、退職金を取りに来るようにして、すべての支払いを終え、やっと肩の荷が降りた。もうどこで死のうと悔いのない気持ちだった。(途中省略)終戦を迎えた。翌日、一番列車で疎開先から鹿児島市に出た。市街は惨澹たるものであった。鹿児島駅から西駅の辺りが見えるほどで、市内は9割方が戦災で焼けたのである。会社の焼跡に行き、まず再建の基点となる事務所を作ることにした。材料は主に防空壕から掘り出した木材、半焼のトタン、焼釘などを用いて2日間で2坪半の小屋を建て終わった。無論カンナなども使っていない。のこぎり、かなづちは疎開先で買っておいたのが役に立った。焼跡にポツンと立ったほったて小屋の事務所、これが当社の復興の第一歩であった。

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パンツ問答~兵六餅 昭和24年

兵六餅を販売するに当たっては不安があった。当時は米軍政下。士気を鼓舞する映画、遊びも禁じられている。後で販売禁止を進駐軍より命ぜられては元も子もなくなると思い、警察に行くと「腰にさしている日本刀が問題」という。真剣な面持ちで米軍政事務所に行き、通訳を通して係官に兵六物語の説明をした。「決して好戦的でなく、ユーモアな物語なのだ。昔の武士はみんな刀をさしていて、これは当時の風俗である」と弁解。「わかった、刀はよろしい。しかしおしりの丸出しがよくないパンツをはかせろ。その条件で許可する」というのである。これにはさすがにびっくりした。しかし、せっぱ詰まったときは不思議と言葉も出るもので「これはパンツをしているのだ。“ふんどし”をしている。“ふんどし”はジャパニーズパンツである。隠すべき所はちゃんと被ってある。あなたも日本人ならわかるだろう。うまく説明してくれ」と通訳に向かって必死に頼み込んだ。すると暫くして「よろしい、本官がいる間はよろしいということだ」と言ってくれた。嬉しかった。ありがとう。天にも昇る気持ちで門を出た。兵六どんにさるまたをはかせた格好を思い出し、今でも笑うこと、しばしばである。

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いよいよ製造開始~アイスクリーム事業 昭和32年

当時、私は51歳、作業員はすべて大学、短大、中学のその年の卒業生ばかり、ほかは男女とも臨時雇用であった。事業の先行きはわからず、手探りであった。自分自身、現場主任と人にも言い、自分もそのつもりで朝早くより勤めた。冷凍機20馬力一基、15馬力一基のわずかなものだった。従って真夏には品不足でお得意様より叱られたが1年目をどうやら切り抜けた。無論、赤字であった。2年目よりモナカを手詰めで始めた。円筒形のブリキ缶にアイスクリーム原液を詰め、それを氷の入った板囲いの箱に入れ塩を振って温度を下げて保冷し、デッシャーですくい上げてモナカに詰めるのである。それがまたよく売れて24時間作業をした。総務部、営業部の社員も半凍結クリームをバケツで運び補給していたのをまざまざと覚えている。今では工場内部も冷凍庫も一新拡大されて、往年の姿は、そのおもかげを思い出すべくもない。

二代目社長(玉川秀一郎)遺稿集より

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